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尾崎咢堂の一生

尾崎咢堂の一生

【安政5年/1858 満0歳】

相模国津久井郡又野村(現在の神奈川県津久井町又野)に生まれる。

 【慶応4年・明治元年/1868 9~10歳】

上京。安岡良亮から七書の講義をうけ、平田塾で古典を学ぶ。

【明治4年/1871 12~13歳】 尾崎咢堂1

父の転任に伴い高崎に移住、英学塾に入り小泉敦に英語を学ぶ。

【明治5年/1872 13~14歳】

父の転任に伴い度会県山田(現在の三重県伊勢市)に移住。

宮崎文庫の英学校に学ぶ。

 【明治7年/1874 15~16歳】

福沢諭吉の慶応義塾へ入学する。

【明治8年/1875 16~17歳】

「学者自立論」を執筆し、福沢に示す。

【明治9年/1876 17~18歳】

慶応義塾を退学し、工学寮(後の工部大学)に入学ずる。

在学中、「討薩論」を書き、曙新聞に投書する。

【明治10年/1877 18~19歳】

工学寮を去り、「民間雑誌」の復刊編集に従事する。

【明治11年/1878 19~20歳】 

長崎県人田中繁子と結婚する。

【明治12年/1879 20~21歳】

福沢諭吉の推薦で、二十歳の若さで新潟新聞の主筆となる。

【明治14年/1881 22~23歳】

矢野文雄に招かれ、統計院権少書記官となるが、明治十四年の政変で大隈重信が罷免され、それに伴い退官する。

【明治15年/1882 23~24歳】

報知新聞に入る。この頃より「学堂」と号する。

大隈重信を総理に、立憲改進党の創設に参加する。

【明治18年/1885 26~27歳】

報知新聞を去り朝野新聞に転じる。

【明治20年/1887 28~29歳】

保安条例により、三年間の皇居三里外への退去を命じられる。驚きのあまり号「学堂」を「愕堂」と改める。

【明治21年/1888 29~30歳】

アメリカ、イギリスへ外遊の途につく。

【明治22年/1889 30~31歳】

大日本帝国憲法の発布に際し、大赦令公布され、東京退去命令解かれる。大隈外相遭難の報に接し、翌月帰国する。

【明治23年/1890 31~32歳】

第一回衆議院総選挙で、三重県五区から立候補し当選する(以来二五回連続当選)。

【明治25年/1892 33~34歳】

第二回総選挙で、松方内閣の選挙干渉に抗し、苦戦するも見事当選。

【明治26年/1893 34~35歳】

第四議会で軍艦製造費の削減を主張する。

【明治28年/1895 36~37歳】

政府の三国干渉屈服に反対し、伊藤内閣攻撃の急先鋒となる。

【明治29年/1896 37~38歳】

大隈重信を党首として進歩党を結成。

第二次松方内閣(松隈内閣)の外務参事官に就任する。

【明治31年/1898 39~40歳】

第一次大隈内閣(隈板内閣)の文部大臣として入閣するが、「共和演説」事件のため文相を辞任。

【明治33年/1900 41~42歳】

伊藤博文を総裁とする立憲政友会の創立に参加する(同党総務委員)。尾崎咢堂2

【明治36年/1903 44~45歳】

政友会を脱党。

第二代目の東京市長に就任し、東京市政の改革に取り組む。

【明治37年/1904 45~46歳】

繁子夫人死去。

【明治38年/1905 46~47歳】

英国育ちのテオドラ(日本名・英子)を迎えて後妻とする。

【明治45年・大正元年/1912 53~54歳】

桜の苗木三千本を東京市からアメリカの首都ワシントンに贈る。

東京市長を辞職。

犬養毅とともに憲政擁護運動の陣頭に立ち、「憲政の神」と称される。この頃「愕堂」を「咢堂」と改める。

【大正2年/1913 54~55歳】

桂内閣弾劾演説を行い、倒閣に至らしめる。

【大正3年/1914 55~56歳】

第二次大隈内閣の司法大臣となる。

【大正8年/1919 60~61歳】

第一次大戦後の欧米を視察し、帰国後は普通選挙と軍縮を訴える。

【大正9年/1920 61~62歳】 尾崎咢堂3

普通選挙運動の先頭に立つ。

【大正10年/1921 62~63歳】

軍備制限論を掲げて全国遊説を行う。

【大正13年/1924 65~66歳】

第二次護憲運動が起こり、尾崎も東京、大阪で演説を行う。

【昭和3年/1928 69~70歳】

三大国難決議案提案理由を説明する。

【昭和6年/1931 72~73歳】

カーネギー財団から招かれて八月に渡米、その後英国に渡る。

【昭和7年/1932 73~74歳】

ロンドン滞在中、衆議院議員に当選する。

テオドラ夫人ロンドンで死去。

【昭和8年/1933 74~75歳】

夫人の遺骨を携え帰国する。『墓標に代へて』を発表。

【昭和12年/1937 78~79歳】

辞世の歌を懐に、議会で決死の軍部批判を行う。

【昭和16年/1941 82~83歳】

大政翼賛会に対する反対質問のため登壇しようとするが阻止される。

【昭和17年/1942 83~84歳】

東条首相に翼賛選挙批判の公開状を送る。

田川大吉郎の応援演説に関し「不敬罪」で起訴され、懲役八ヵ月、執行猶予二年の判決が下るが、直ちに上告する。

【昭和19年/1944 85~86歳】

大審院の判決で無罪となる。

【昭和20年/1945 86~87歳】

「休戦と新世界建設の構想」「平和的新世界建設の要件」の二論文、終戦のため未発表に終わる。

「世界連邦建設に関する決議案」を議会に提出する。

【昭和21年/1946 87~88歳】

戦後初の総選挙に当初立候補を辞退するも、咢堂会の推薦で立候補し当選する。

【昭和25年/1950 91~92歳】

米国「日本問題審議会」の招待で渡米する。

【昭和27年/1952 93~94歳】

病床より立候補し、二五回目の当選。

【昭和28年/1953 94~95歳】

総選挙で初めて落選。衆議院名誉議員、東京都名誉都民(第一号)となる。

【昭和29年/1954 95歳】

神奈川県逗子市の風雲閣で午後九時二二分永眠する。