旧跡めぐり体験

伊勢市では、歴史的に重要な箇所に、石標柱を建立しております。

歩道のない道路、山上、個人宅などに設置されている所もありますので、旧跡を訪ねられる場合は、公共マナー・交通ルールを遵守し、事故やケガに御注意ください。

 

下線の所をクリックすると画像が見られます。

 

村松家行居館跡(村松町 村松神社境内)<昭和57年建立>

村松(度会)家行(12561351)は、外宮の禰宜(ねぎ)で長官も務めた。度会神道の主唱者で、南朝方に属し、北畠親房と親交があった。

 

丁塚古墳(西豊浜町 市営住宅西豊浜町団地)<昭和46年建立>

6世紀前後の築造と考えられる、復元径29m、高さ4mの円墳。平安時代に経塚として利用されたことから、経塚古墳とも呼ばれる。

 

磯の渡し(磯町 宮川大橋下河口側)<平成13年建立>

江戸時代、宮川にあった三つの渡し(他に柳の渡し、桜の渡し)の一つで、磯町と高向(御薗町)間の地方路線として、近在の人々が利用した。昭和27年、豊浜大橋の完成により廃止された。

 

大湊波除堤(大湊町 東町ポンプ場付近)<平成11年建立>

この堤は山田奉行20代保科淡路守正純が享保14年(1729)に幕府より普請料を得て修築した。かつてこの地には燈明台があり現在はその基礎部のみが残存する。

 

俳人麦林舎乙由墳墓地(船江4丁目 船江河崎共同墓地入口)<昭和13年建立>

乙由(16751739)は、伊勢俳壇の代表的俳人。河崎で材木商を営む。のち、御師となり慶徳図書と称した。

 

国学者御巫清直邸跡(小木町 315番地付近)<昭和59年建立>

清直(18121894)は、幕末から明治にかけての神宮祠官。神宮に関する考証学者としても数多くの著書を残す。晩年この地に住む。

 

俳人岩田凉莵墓(大世古3丁目 大世古墓地南側入口付近)<昭和43年建立>

凉莵(16611717)は、俳人で神風館3世を名のった。芭蕉に学び、伊勢俳壇に蕉風を導入した。

 

河崎環濠遺跡(河崎2丁目 349番地付近)<平成12年建立>

河崎の町のはじまりは15世紀後半(室町時代後期)と考えられる。物資の集散する商港として栄えたことから、町を自衛するための環濠が築造された。

 

伊勢街道松並木(宮川2丁目 宮川町バス停付近)<昭和8年建立>

正保年間(16441647)以前はこの道筋が街道として使われ、この辺には松並木があった。太平洋戦争中に伐採した。

 

神宮御用材貯木池跡(中島1丁目 度会橋下流河川敷中段)<昭和50年建立>

大湊の貯木場から宮川を遡行して外宮用の御用材を貯木した場所で、下川とも呼ばれた。

 

松井孫右衛門人柱堤(中島1丁目 宮川グランド横神明神社付近)<昭和8年建立>

江戸時代初期の宮川治水の恩人。古来宮川堤は洪水によりたびたび決壊し、多くの被害を与えた。その堤防の安全のため、自ら申し出て人柱になったといわれる。

 

久留山威勝寺跡(辻久留1丁目 久留山荘前)<昭和63年建立>

真言宗寺院で天文年間(15321554)に久留嘉左衛門尉威勝の創建といわれる。境内に風格のある庭園があり、弁財天(室町時代)を祀る。明治3年廃寺となった。

 

村山砦跡(常磐3丁目 市民武道館北西道路沿い)<平成4年建立>

文明18年(1486)宇治と山田が争った際、国司北畠氏と手を組んだ宇治に対し、山田側は御師村山(榎倉)武則を大将としてこのあたりの高台にこもって対抗した。

 

文学者慶徳麗女墳墓地(浦口3丁目 天神丘南側墓地入口付近)<昭和8年建立>

慶徳麗女邸跡(八日市場町 8番地3)<昭和42年>

慶徳(荒木田)麗女(17321806)は、紫式部・清少納言以来の女性の文学者といわれる。歴史物語をはじめ、物語、紀行文、随筆、句集など多くの著作がある。

 

小町経塚(浦口3丁目 天神丘南側墓地中腹付近)<昭和42年建立>

平安末期の埋経遺跡。多くの瓦経片のほかに、陶製光背(重文、東京国立博物館蔵)、陶製宝塔などが出土している。紀年銘に承安4年(1174)とある。

 

国学者 荒木田久老邸跡(常磐2丁目 浦之橋商店街振興組合前)<昭和43年建立>

久老(17461804)は、国学者で内宮権禰宜。賀茂真渕に国学を学び、本居宣長の兄弟子。

 

三宝院跡(八日市場町 福祉健康センター前)<昭和48年建立>

元は前山にあったがこの地に移り、明治3年廃寺となった。『伊勢太神宮参詣記』(康永年間<13421344>)の記事で知られる。

 

御師 福島みさき大夫邸跡(八日市場町 5番16号)<昭和46年建立>

山田の代表的御師で、正しくは福島御塩焼大夫と称した。安永6年(1777)には檀家数(185千戸余り)に及んだ。門は現在、倉田山に移築され神宮文庫の門として利用されている。

 

御師龍大夫跡(邸宅跡)(大世古1丁目 大豊和紙工業西側)<昭和8年建立>

龍大夫は、山田の代表的御師で、檀家数163千戸余りを持ったといわれる。一門の龍尚舎(16161693)は、伊勢俳壇の重鎮的存在でもあった。

 

山田三方会合所跡(一之木1丁目 まるこ幼稚園東側県道沿い)<昭和42年建立>

坂・須原・岩渕の三方年寄による自治行政が行なわれた役所跡で、室町時代以来明治維新まで存続した。

 

茶人 杉木普齋邸跡(一志町 厚生小学校西側)<昭和43年建立>

普齋(16281706)は、山田の茶人。千利休の孫宗旦に学び奥義を極めた。

 

国学者足代弘訓之邸跡(宮後1目 小原病院前)<昭和13年建立(平成8年再建)>

国学者足代弘訓翁墳墓地(宮後2丁目 近鉄伊勢市駅前道路沿い西側)<昭和8年建立>

弘訓(17841856)は、伊勢の代表的国学者。外宮の権禰宜。大塩平八郎や勤王の志士とも交流があった。また、各方面に活躍し、救荒作も講じた。

 

山田奉行所跡(吹上2丁目 ぎゅーとら八間通店前)<昭和8年建立>

寛永8年(1631)、奉行花房志摩守のときに置かれた。山田奉行の公事屋敷で、俗に「おやしき」と呼ばれている。

 

出口延佳邸跡(岩渕1丁目 真珠会館前)<昭和49年建立>

神典功労者出口延佳翁墳墓地(岩渕3丁目 伊勢郵便局南西一誉坊墓地内)<昭和8年建立>

延佳(16151690)は外宮の権禰宜に任じられ、神道に関する多くの著述がある。豊宮崎文庫の創建(慶安元年<1648>)に功労があった。

 

御師 三日市大夫次郎邸跡(岩渕1丁目 伊勢税務署北側)<昭和46年建立>

山田の代表的御師で、最大の檀家数(35万戸)を持ったといわれる。

 

史蹟 旧豊宮崎文庫(岡本3丁目 郷土資料館横)<大正13年建立>

慶安元年(1648)、外宮権禰宜の出口延佳の主唱で、創設された外宮祠官の学問所。幕府の保護も受け室鳩巣、貝原益軒らも来講し蔵書は2万冊を超えたという。(国史跡)

 

濱田國松邸跡(岡本1丁目 霊祭講社北東道路沿い)<昭和61年建立>

濱田國松(18681939)は、明治37年以来衆議院議員当選12回、昭和9年議長となる。同12年の国会における寺内陸軍大臣との腹切り問答は有名で、廣田内閣崩壊の原因となった。

 

上部越中守邸跡(岡本1丁目 津地方裁判所伊勢支部敷地内)<昭和58年建立>

織田・豊臣両家の御師で、特に豊臣秀吉の信頼が厚く、山田惣中の奉行として郷土の発展に功績があった。

 

度会府庁跡(岩渕2丁目 宇治山田駅前陸橋東側下)<昭和8年建立>

江戸期、宇治と山田を所管した山田奉行所が明治元年727日に廃止され、度会府庁がここに置かれた。

 

常明寺跡(倭町 金刀比羅神社入口)<平成9年建立>

平安時代に創建された度会二門の氏寺。もとは真言宗であったが寛永年中(16241644)に天台宗に改宗される。明治初期に廃寺となる。現在一之木1丁目にその寺号が残る。

 

俳人三浦樗良墳墓地(岩渕3丁目 市営住宅倭町団地西側一誉坊墓地内)<昭和13年建立>

樗良(17291780)は、江戸後期の伊勢の代表的俳人。鳥羽藩士。各地を遊業し蕉門の復興に努めた。

 

間の山 お杉お玉(岩渕町 27番地)<平成4年建立>

この街道沿いで江戸時代中期からお杉お玉と称した大道芸人が、三味線などをひいて参宮道者に興を添えていた。

 

清雲院跡(尾上町 70番地内)<平成10年建立>

徳川家康の夫人於奈津の方の心願により寛永7年(1630吹上町に開基、於奈津の方と家康の像を安置。東照山清雲院と称した。寛文10年(1670)の山田の大火によりこの場所に移転。現在は神社港にその寺号が残る。

 

備前屋跡(古市町 バス停テニスコート前付近)<平成元年建立>

古市には天明年間(17811788)頃、人家約350軒中妓楼は70軒余あったと言われる。この備前屋は牛車楼とも呼ばれ、古市著名妓楼のひとつであった。

 

古市芝居跡(古市町 古市郵便局付近)<昭和46年建立>

役者の登竜門といわれた古市歌舞伎の口の芝居小屋跡

 

油屋跡(古市町 近鉄跨橋北側)<昭和58年建立>

旧古市遊廓の代表的妓楼。寛政8年(1796)に起こった「油屋騒動」を題材にした歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」の舞台で知られる。

 

千束屋りと墳墓地・川上源十郎墳墓地(久世戸町 久世戸墓地入口)<昭和13年建立>

●りと(17271814)は、妓楼を廃業し、蓄財を牛谷坂改修のために拠出した。●源十郎(18001854)は書家で、寛永6年(1629)、山田奉行により山田羽書取締役を命ぜられ、汐合川の渡船場の料として600両積み、10年間無償渡船できるようにした。

 

南山古墳(鹿海町 中部電力鉄塔下)<昭和54年建立>

6世紀中葉〜7世紀初頭にかけて築造・埋葬されたと考えられる、径18m、高さ2mの円墳(市史跡)。埋葬施設3基のうち、羨道部石積横穴式木芯室は全国的に特異なものである。昭和54年発掘調査。

 

弘正寺跡(楠部町 JA伊勢 伊勢支店裏)<昭和59年建立>

真言宗に属し西大寺叡尊(12011290)を中興の祖と伝え、もと興正寺と称した。再三の火災により寺域にも異動がある。明治初年廃寺となった。

 

遺跡 藤波の里(佐八町 佐八小学校校門前)<昭和43年建立>

内宮神主荒木田氏の一門である藤波氏がこの地を開き住んだことから藤波の里と呼んだ。

 

米山新田開発跡(円座町 円座町墓地西側県道沿い)<平成2年建立>

紀州藩円座の大庄屋米山宗隆(16211702)とその後裔宗持(17901842)がともに新田開発に努力した。

 

鼓岳山蓮台寺跡(勢田町 蓮台寺公園付近)<昭和57年建立>

平安中期、神宮祭主大中臣永頼が長徳年間(995998)に建立した真言宗の古寺。明治2年廃寺。

 

宇治惣門跡(宇治浦田2丁目 猿田彦神社西側道路沿い)<昭和58年建立>

旧参宮街道の牛谷坂と宇治の町並みとの間に設けられ、俗に黒門と呼ばれ、番屋が明治維新までここにあった。

 

藤波長官遺跡・藤波の松(宇治浦田1丁目 バス停浦田町ロータリー)<昭和8年建立>

内宮長官藤波氏富(16071687)が従二位に叙せられた記念に邸宅に植えた松の跡。松は昭和428月に枯死した。

 

慶光院清順墳墓地(宇治浦田1丁目 旧慶光院北側墓地内)<昭和13年建立>

清順(?〜1566)は、臨済宗の尼寺慶光院の3代目として宇治橋架替、外宮正遷宮の復興に貢献した。

 

俳祖守武翁遺跡(邸宅跡)(宇治中之切町 おかげ横丁北側)<昭和8年建立>

荒木田守武(14731549)は、室町時代後期に連歌から俳諧を独立させる機運を作り、山崎宗鑑とともに後の人々から俳祖と呼ばれるようになった。

 

宇治年寄会合所遺跡(宇治中之切町 85番地内)<昭和13年建立>

近世、宇治を支配した自治組織の役所跡。慶応4年(1868)廃止された。

 

宇治法楽舎跡(宇治中之切町 95番地付近)<昭和58年建立>

神仏習合の歴史的施設で、後宇多天皇の建治元年(1275)に建てられ、蒙古撃退の祈願法楽をおこなったといわれる。

 

画家 磯部百鱗邸跡(宇治今在家町 岩戸屋百鱗房付近)<平成3年建立>

磯部百鱗(18361906)は四条・円山派のながれをくみ、人物・山水を描き特に歴史画にすぐれた作品を残した。

 

菩提山神宮寺跡(中村町 五十鈴川中村浄化センター奥)<昭和43年建立>

鎌倉時代の文献に寺号がみえ、明治2年廃寺となり、寺宝の多くは愛知県碧南市方面に移った。

 

国史跡 朝熊山経塚群(朝熊町 朝熊ヶ岳山頂)<昭和57年建立>

平安末期の埋経遺跡。承安3年(1173)銘経筒、阿弥陀三尊来迎鏡像、経巻などのほか、保元元年(1156)銘経筒も出土している。昭和3738年発掘調査。

 

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