過去の地震

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ページ番号1001569  更新日 令和元年12月30日

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明応地震 1498年(明応7年)

遠州灘沖を震源とする推定マグニチュード8.2~8.4の海底地震。 伊勢を襲った津波の高さは6~10mといわれ、大湊では松の木を大船が超え、津波は現在の御薗町長屋まで入り込み、1,000軒余りの家屋が流失、5000人余りが死亡したとされています。
津波が引くとき、海底の砂がはるか沖まで干上がり、これを見物しに海へ出掛けた人々は、再び押し寄せた山のような津波によって流されたと伝えられています。

宝永地震 1707年(宝永4年)

地震の規模はマグニチュード8.4と推定され、東海道・伊勢湾・紀伊半島で大きな被害があり、東北地方太平洋沖地震が起こるまでは、記録に残る日本最大級の地震とされてきました。 津波は伊豆半島から九州に至る太平洋沿岸を襲い、大湊を襲った津波の高さは6~8mで、徳田・中須新田1,000余町が流失し荒地となったとされています。

安政東海地震 1854年(安政元年)

過去直近に起きた東海地震で、震源の規模はマグニチュード8.4と推定されています。 8~10mの津波が襲い、大湊では灯台が流失し、町中へ大船1隻が打ち上げられたとされています。地震によって土蔵・寺院・民家3,190軒に損害があり、二見でも約5mの津波が襲い、荘・今一色・江・西で被害があったとされています。

昭和東南海地震 1944年(昭和19年)

1944年12月7日、午後1時36分ごろ、熊野灘を震源として発生した、マグニチュード7.9の海溝型巨大地震で、100年~150年おきに発生している東南海地震の1つです。 当時の宇治山田市内は、一部が震度6の激しい揺れに襲われたと推定されており、市内全体の被害は、死者・行方不明者10人、負傷者29人、全壊家屋228棟、半壊家屋1425棟でした。また、二見町では49棟、小俣町では2棟の家屋に被害があったとされています。
大湊では、地震発生から約20分後に、約2mの津波が押し寄せ、市内全体で150棟を超える家屋が流失したとされています。

参考文献

  • 【伊勢市史 第二巻】(伊勢市 2011年)
  • 【東海地方地震・津波災害誌(飯田汲事教授論文選集)】(飯田汲事 1985年)
  • 【津波調査報告書「検証・東南海地震津波」】(三重県 1995年)
  • 【明応7年・慶長9年の房総および東海南海道大津波の波源】(羽島徳太郎 1975年)

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