史跡旧豊宮崎文庫説明碑

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ページ番号1013349  更新日 令和3年12月16日

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史跡旧豊宮崎文庫説明碑書き下し文

豊宮崎文庫は、慶安元年(1648)豊受大神宮(外宮)祠官修学の道場として設立、主唱者出口延佳・與村弘正・岩出末清および同志70名の醵金をもって、外宮宮域東隣豊宮崎の地に創立された。文庫および講堂を設け、毎月日を定めて同志あい会し、講師を招いて神典儒書等の講義を開き、また出資者は籍中と称し保管経営にあたった。寛文元年(1661)、時の山田奉行八木但馬守は幕府に請うて、米麦二十石の采地を購入して文庫に寄付し、永代の修理料にあてさせることとし、また文庫式条を制定した。その後文庫・講堂・大観社・天神社・霊社・表門等を修築あるいは建設してその規模の充実を計った。爾来、公卿・諸候・学者等より貴重な書籍が寄せられ、あるいは著名な学者の来って書を講ずる者多く、室鳩巣・貝原益軒・伊藤東涯・井澤長秀・谷重遠・大塩中齋・藤森大雅・齋藤拙堂などの大家もその中にあった。その後一進一退はあるが、籍中の協力によってよく維持し明治に至った。明治元年(1868)山田奉行の廃止、度会府の設立に伴い文庫も廃され、一時宮崎学校となった。しかるに明治4年(1871)廃校となり、文庫は再び籍中へ引渡されたが、明治11年(1878)講堂が焼失し、籍中も非常に少なくなり、ついに協議のうえ西田貞助一人の所有に帰した。明治43年(1910)神苑会は書籍・什器の散佚を慮り、これを神宮文庫および徴古館に納めたが、その中の蔵書は二万七百余冊の多きにのぼり、學術的価値も高い。大正12年(1923)3月7日、教育学術史上重要なものとして史跡にされたが、その時の敷地約986坪、遺構としては表門・築地・霊社・文庫創設碑・孝経碑等をはじめ、補修を経ているが文庫・大観社等があった。また敷地内には、いわゆる御屋桜があり、花時の一名勝地となっていた。この地は古くからとかく湿潤の嫌いがあったが、昭和35年(1960)10月、新所有者覺田嘉蔵によって敷地は盛土され、それに伴って、表門・築地・碑等の地上げ修復が行われ、桜樹も再び植栽された。なお、現在唯一の建物である表門は創建当初のもので、寛文2年(1662)および文政2年(1819)の修理を経て慶應4年(1868)屋根葺き替えを行なっている。

大正12年3月7日史跡指定 文化財保護委員会

(裏面)

昭和三十八年一月 覺田嘉蔵建之 川合東皋書 荒木石材株式会社刻

 

史跡旧豊宮崎文庫説明碑原文

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